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カウンターメディアとしての1人会派

一般論として、二元代表制である地方政治における”1人会派”の意義について以前書いたが、盲点となるポジショニングがあった。

かつて私も議会における1人会派のポジションについて考えたことがあったが、制度システム論からは、やはり究極的には「数を増やしていく」という結論しか出なかった。

だが、1人会派でいることで発揮できるポジションがあったのだ。それが「文春」的ポジションである。

行政組織のトップである首長が誰になっても必ず不満を持つ人は出てくるし、既得権益がある限り、それはなくならない。一般的にそうした不満分子による内部からの情報は、首長に対し、批判的な勢力に流れる。多くの自治体でその役目を共産党及びその機関紙「赤旗」が担っていることが少なくない。革新系/中道系自治体では自民党ということもある。内部の人間は、どの勢力が首長に対しフォローなのかアゲンストなのかはもちろんわかっている。

でも、どの政党でもどの勢力でもやはり党利党略がある。人と人が2人以上集まれば必ず一致しない部分が出てくる。不都合なこともある。時が経ち、人が増えればしがらみが少なからずある。既存マスメディアが、売上の大半を占める広告主や許認可権を持ち記者クラブなどで繋がる政府を100%批判できないのと同じだ。

だから、内部の情報はしがらみのない、リークしたものは100%取り上げてくれて取材力のあるメディアに集まる。それが週刊文春だ。文春に思想や主張は関係ない。あるのは「反権力」と「反権威」である。「監視」とは違う。なぜなら、公だけでなく私も暴こうとする。時の権力に対するカウンターこそ力の源泉である。そこには思想やオピニオンは関係ない。

「それでいったい何を実現できるんだ!?」と罵るが、文春の存在意義を疑う人は昔ほど多くないだろう。現在の文春は、フォーカスともフライデーとも明らかに違う。

発展はしづらいが確実に一定のニーズがあり、一定のマーケット(読者)がある。文春の記者は、朝駆け夜討ちをしてネタを探す必要はない。ネタは勝手に運ばれてくる。100%記事化することで与える信用、真相究明するという信頼、そして正確にウラを取る取材力が求められる。そこがポジションである。

これはドラッカーはおろか、コトラーやポーターも書いていない。そこがまさに血みどろの競争のない、チャンキムのいうブルーオーシャンなのかもしれない。

「高野、政権交代、政権交代、もう一つの選択肢、選択肢って、いったい何言ってるんだ?右とか左とか上とか前とか、古いんだよ!」

そんな声が聞こえてきそうだ。

高野はやと@江東区