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「はやと、うちの子を東大に行かせたいんだ。俺が味わった経験を絶対に子どもにさせたくないからさ」

「はやと、うちの子を東大に行かせたいんだ。ロボットを作るのが好きで、この前は芝浦工業高校にも行ったよ。あそこ江東区でしょ。俺が味わった経験を絶対に子どもにさせたくないからさ」忘れないうちに書き留めておきたい。

私には3つ年上の従兄弟がいる。小学2年生の子どもがいる。大学卒業後、地方のテレビ局に勤め、独立し、テレビ番組の構成作家をしており、映画制作もしている。非常に寡黙なタイプであまり自分から口を開くことは少ない。今回は病室で初めて2人で話した。私が、祖母の生い立ちなどを話したことがきっかけで、子どもの頃から今までの話を初めて聞いた。

当時インターネットもなく、情報はクチコミに頼るしかない時代。3つ上の従兄弟と同じ道を歩んだ。従兄弟が通った学童保育に通い、小6の3学期から従兄弟が見つけた地元学習塾に通い、従兄弟と同じ高校に行った。それらの後追いのおかげで、従兄弟が落ちた私立高校にもたまたま合格したり、従兄弟が行きたかった大学に挑戦したり、そのうちの一つの私立大学は実際に入学した。

詳細は身内のことなので書かないが、とにかく貧しかった。とんでもなく貧しかった。家の構造も今思えばおかしかった。加えて親が働きに出て全く家にいなかった。祖母が面倒を見てくれた。祖母がいなかったら今の自分はいない。だから帰ってきた。そう話していた。従兄弟家族と祖母は二世帯住宅とは言えないぐらいの家に住んでいた。私は母子家庭だが、母が入院中は従兄弟の家に預けられていたのもあり、日本の中流家庭がどういうものなのかわからなかった。

従兄弟の口から、初めて幼少期から青年期に抱えていた葛藤などを聞いた。高野家では、初めて四年制大学に入ったのが従兄弟。小学生の頃、少年ジャンプの漫画コンクールに入賞したり、ケンカも強く、ボクシングをしたり、学業も優秀な成績をおさめていた。ただ、高校時代は塾に行かず、新聞配達のバイトをしていたのが思い出される。

高校からは、校区単位ではなく偏差値別になるから、初めて我々は貧しい家庭であったということを目の当たりにした。医者、歯医者、目医者、士業、銀行員、市役所…親の所得と偏差値に、これほど相関があるのかと我々は思い知らされた。

冒頭に戻る。従兄弟の口から初めて「東大」という言葉を聞いた。そういうことだったのか。25年前の謎が解けた。そして未来のことなども含め語った。改めて函館に帰ってきて良かった。従兄弟は今朝東京に戻って行った。

親の所得や資産で、子どもの未来が決して狭められることのない社会を創ってゆく。

その決意を新たにした。従兄弟が構成を担当している経済番組を観ながら帰路につく。

高野勇斗