個人があって国家がある。国家があるから個人があるのではない。これこそ国家観でありもう一つ選択肢

今回の補欠選挙が始まる前あたりから聞こえ出し、何度か触れましたが、総括としてもう一度明確に書いておきます。選挙のために、江東区に移ってきて、愛国心を喧伝して回った人たち。中国や韓国、中東の方々、移民、難民、区内在住の外国人、時には訪日外国人など、不満を外に向けることで、そうした人々を排斥することによって、愛国心を醸成し糾合しようとした人たち。またそうした人たちに、不安や不満を向けるために、ことさら改憲や自主防衛を強調している人たち。

次の選挙の前に明確に伝えておきます。君が代を10回詠んでも、教育勅語を100回読んでも、靖国神社に1,000回参拝して写真をSNSにアップしても、日本国旗や旭日旗を10,000回讃えたからといって、愛国心は芽生えません。先の大戦で、日本がいかに勇ましく戦ったかばかりを宣伝しても愛国心は芽生えません。真の愛国心とは、関係性の上で成り立つものだからです。海外に住み初めて日本を見た時。日本の言葉、歴史、文化、食、四季などに改めて触れた時。海外の悲惨なニュースを見た時。外国人と接した時。外国人の友人から感謝された時。などさまざまな場面で芽生えるものだからです。そして1人1人感じ方が違います。

私は、個人があって国家があると考えます。国家のために個人が尽くすのではない。個人のために国家が尽くすのです。国家があって個人があるという考えがあってももちろん悪いとは言わないが、それを強調すればするほど、多くの区民の想いから遠のきます。54万人のうち4万人も外国人がいます。そして自分も何かの分野ではマイノリティであるはずです。私は左利きです。母子家庭育ちです。マイノリティの人々を排斥することは、回り回って自分が排斥されることになるのです。日本で暮らし働く1人1人の望む人生やライフスタイルを否定されたり、差別されたりされない、むしろ尊重する社会を目指します。

差別のない、貧困のない、戦争のない、そして地球を持続的なものに。

個人がいるから、国が成り立つのです。国があるから、個人がいるのではないのです。1人1人の人生や生き方を尊重した政治を。これがもう1つの選択肢です。国家観です。この前提から、個々の政策を策定し訴えてゆきます。対話と共感の政治を草の根から。