「なぜあなたは当事者でもないのに同性婚の実現を訴えるのか」
この質問に一度しっかりと答えておきたい。回答は「私自身が当事者であるから」となる。私はLGBTQの当事者ではない。しかし、マイノリティの当事者となる経験をしたことがある。
反対に、なぜ同性婚に反対するのか?それは簡単に言えば「当事者でない」からだ。古くは、黒人奴隷の問題、人種の問題、女性の権利の問題、日本では、部落の問題でも、在日の問題、障害者の問題でも歴史を学べばわかる。人類は権利獲得の歴史といっても過言ではない。共通点は、当事者ではないからだ。加えて、その問題を認めてしまうことにより自分の権利が脅かされると考えるからだ。
私は高校を卒業し、上京し、大学に入学してから多くのマイノリティの当事者に出会った。社会問題として、マイノリティとして差別の対象となっている当事者に出会い話を聞く貴重な経験を若いうちにした。(早稲田大学というのはその意味でもマンモス校、人種のサラダボウル。勉強こそしなかったが、函館の片田舎では決して経験しえなかったいくつもの「出逢い」には心から感謝している。)
大学卒業後も、「差別」に対する問題意識は消えることなく、インドネシアやシンガポールに駐在し、その国で外国人であること、つまりマイノリティであることを身をもって経験した。30歳を迎えた時、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所に向かった。3日連続でクラクフから2時間かけて通った。その時に出会った有名な言葉が忘れられない。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
「ニーメラーの詩」と呼ばれている。当事者でない自分が無関心でいるのではなく、声をあげること、行動することがいかに必要であるかを的確に表している文章だ。心を打たれた。人は誰しもいつかは差別される側になるかもしれない。誰しもがマイノリティになることを、それも突然訪れることを、多くのユダヤ人の屍の光景とともに胸に刻み込んだ。
人種や思想の問題だけではない。誰しもがいつかは病気になるかもしれない。2人に1人はガンになる時代。また、いつかは心の病気になるかもしれない。事故に遭い動けなくなるかもしれない。そして働けなくなり、困窮するかもしれない。生活保護を受けるかもしれない。その当事者になる可能性は誰にでもある。
みなさんは、チェイニー副大統領をご存知だろうか。9.11同時多発テロ、そして、イラクに核兵器があると言い張り、侵攻したブッシュ政権の副大統領である。当時、ネオコンと呼ばれ、安保でも価値の問題でも保守的で父権的な右派の代表格であった。
彼の実話に基づいた映画では、最後に1つ事実が発覚する。彼の娘がレズビアンであることをカミングアウトするのだ。
当事者は自分ではないかもしれない。自分ではないかもしれないが、家族がその当事者であったらどうだろうか。同じ行動を取るだろうか。
誰しもが困窮することがあるし、病気になることもある、そしてマイノリティの当事者として差別の対象になることもあるのだ。
私は、江東区議会議員選挙では「同性パートナシップ条例」の実現を政策に掲げる。国政なら、同性婚、選択的夫婦別姓などを掲げて戦うつもりだ。
繰り返すが、人類は権利獲得の歴史だ。権利獲得の戦いで多くの血が流れた。時には後退することもあった。それを勇気と愛と自己犠牲でなんとか押し返し、また戻されながら、少しずつ少しずつ前に進んできた。その歴史、そしてその先人の気持ちをしっかり理解したい。
「あなたは、わたしなのだ」
その気持ちで訴えてゆく。着実に確実に前に進めてゆく。
「お互いさまの、人に優しい社会を創る」
高野はやと@江東区