3年ぶりに訪れた長崎。教会が建ち並び異国情緒溢れる街。港、花畑、路面電車、教会など街の風景が私の故郷函館に似ており、ふと故郷にいるような気持ちになる。78年前の8月9日11時2分。たった1つの原爆により、長崎の街は一瞬にして消し飛んだ。「これは本当に人間がしたことなのか」といまだに信じがたく、言葉で言い表せないほどの惨状の数々を前にして立ち尽くす自分がいる。
長崎でも広島でも聞いた生き残った人々が残した声。「私だけ生き残ってごめんね」「助けてあげられなくてごめんね」「見殺しにしてごめんね」「こんな焼けただれた鬼のような形相をした私がいたら、弟にお嫁さんが来んようになるから、みんなのためにはやく死なんといけん」まだ17歳の女学生。多くが自分を責めている。悔やんでいる。
目の前に広がる苦しみの光景と目に見えない苦しみの声が、目からも耳からも鼻からも皮膚からも入り込み、やがて脳裏へと達する。まぶたの裏に伝う。止まることも留まることもなく繰り返される。
ふと周りを見渡す。多くのまなざし。今年は、学生、小さな子どもを連れた家族、外国人がじっと写真や展示品を見つめる姿がいつもより多くあった。
高校生が口を少し開けたまま、食い入るように見ている。24年前、17歳の私もあのように見ていたに違いない。
修学旅行から函館に戻った後、私は変わった。戦争なき原爆なき世界をつくろう。日本が再び戦争に突き進むことのないよう、そんな時は勇気を持ってとめられる強い人間になろう。そう誓った。その後上京し、地方、そしてアジアを回りを多くのことを経験した。
憲法によって、安全保障によって、戦争をしてよい場合と戦争をしてはいけない場合を規定するのではなく、国際社会の力で、戦争そのものを禁止にしなければならない。戦争なき世界をつくる。そのためには、言語、宗教、文化、人種、歴史など国と国を隔てるあらゆる壁を乗り越えなけれならない。互いの違いを認めること、交流をすることが壁を乗り越えることにつながる。草の根の国際交流こそ最大の安全保障。民間の交流に加え、自治体間の積極的な国際交流も役立つだろう。そう信じ、行動してきた。
核の使用により人類は消滅する。それがわかっていながら、自国を守るために核を持つということはどういうことなのか。抑止力には歯止めがない。臨界点までゆけばどうなるかを想像するしかない。実体験がある唯一の被爆国日本ができることは、核そのものを禁止することである。まず日本が世界に対し、明確に意思表示する。核兵器禁止条約への批准を求める。
平和祈念像に向かう。台風の接近により、記念式典の縮小を発表。設営されたテントなどの解体作業が進む中、広島で合流した仲間たちと目を閉じ手を合わせる。平和祈念像の右手は原爆、左手は平和を表している。
すべての戦争犠牲者の冥福を祈り、未来への決心を新たにする。
高野はやと@江東区